“24岁男子的‘半个身体’在熊的胃里……”——分析近80年报纸后揭示的“不冬眠熊”的极端凶残真相
24歳男性の「体の半分」はクマの胃袋の中に…80年間の新聞を分析して判明「冬眠しないクマ」の凶暴すぎる実態
译文简介
即便到了本该冬眠的季节,由熊引发的伤害事件仍接连不断。非虚构作家、“食人熊”评论家中山茂大指出:“那些在入冬前没能获取足够食物、无法顺利冬眠的熊,会变得异常凶暴,开始不分对象地袭击人类。通读约80年间的北海道地方报纸,可以确认这种令人毛骨悚然的现实。”
正文翻译
24歳男性の「体の半分」はクマの胃袋の中に…80年間の新聞を分析して判明「冬眠しないクマ」の凶暴すぎる実態
“24岁男子的‘半个身体’在熊的胃里……”——分析近80年报纸后揭示的“不冬眠熊”的极端凶残真相
冬眠の時期になっても、クマによる被害が相次いでいる。ノンフィクション作家・人喰い熊評論家の中山茂大さんは「冬ごもりをするために十分なエサが得られなかったクマが凶暴化し、見境なく人間を襲うようになる。約80年分の北海道の地元紙を通読すると、その恐ろしい実態が確認された」という――。
即便到了本该冬眠的季节,由熊引发的伤害事件仍接连不断。非虚构作家、“食人熊”评论家中山茂大指出:“那些在入冬前没能获取足够食物、无法顺利冬眠的熊,会变得异常凶暴,开始不分对象地袭击人类。通读约80年间的北海道地方报纸,可以确认这种令人毛骨悚然的现实。”
■過去最悪のクマ被害の「本当の理由」
環境省の発表によれば、4〜11月のクマによる被害者数が全国で230人となった。
過去最悪のクマ被害を出した令和7年も師走を迎えたが、クマが冬ごもりに入るはずのこの時期になっても人身事故は後を絶たない。
今月4日には、富山市婦中町で新聞配達中の夫妻がクマに襲われ、顔などに大怪我を負い、長野県野沢温泉村では、除雪作業中の男性が襲われ怪我をした。
これほど多くの被害を出した大きな要因のひとつが、東北地方でのドングリの凶作だといわれる。
しかし筆者の体感的には、これに加えて、柿の豊作が影響しているのではないかと思う。
まだ統計が出ていないので断定はできないが、今年は全国的に柿が豊作といわれ、千葉県大多喜町の拙宅でも、たわわな柿が鈴生(すずな)りである。
柿は日本全国で生育し、多くの農家が好んで植えた。
過疎化によって山から人間が撤退し、その一方でクマの支配地域が広がり、里山に放置された果樹が野生動物を誘引する一因となっていることは、指摘されるところである。
山の木の実の不作と柿の豊作が重なったことで、例年より多くのクマが里山に下りてきた可能性がある。
■ 史上最严重熊害的“真正原因”
据环境省发布的数据,4月至11月期间,全国因熊造成的受害者人数达到230人。
即便在造成史上最严重熊害的令和7年已经进入年末,本应进入冬眠期的这个时节,人员伤亡事故仍然不断发生。
本月4日,在富山市妇中町,一对正在投递报纸的夫妻遭熊袭击,面部等部位受到重伤;在长野县野泽温泉村,一名正在进行除雪作业的男子也遭到熊袭击并受伤。
重要原因之一是东北地区橡果的大幅欠收。
然而从笔者的切身体会来看,除此之外,柿子的大丰收或许也产生了影响。
由于尚未公布相关统计数据,尚无法断言,但今年被认为全国范围内柿子普遍丰收,笔者位于千叶县大多喜町的寒舍里,柿子也累累成串。
柿子在日本全国各地都能生长,许多农户都乐于种植。
随着人口减少,人类逐渐从山区撤离,与此同时熊的活动和支配区域不断扩大,而被遗弃在里山的果树,正被指出是吸引野生动物的一个原因。
山林中坚果类作物的歉收,与柿子的大丰收叠加在一起,可能导致比往年更多的熊下山进入里山地区。
■80年分の地元紙を通読してわかったこと
農作物の豊凶作と、クマによる人身被害に密接な関係があることは、過去の記録を見れば明らかである。
筆者は明治・大正・昭和と約80年分の北海道の地元紙を通読して、ヒグマによる事件を収集、データベース化し、拙著『神々の復讐』(講談社)にまとめたが、開拓時代の北海道では長雨や台風、冷害の年には、必ずと言ってよいくらいにクマ被害が増加している。
たとえば未曾有の大凶作といわれた大正2年には、筆者が把握しているところでは、ヒグマによる死者11人、負傷者8人、樺太での行方不明7人を加えると、18人もの犠牲者を出しており、これは開拓期を通して最悪の数字である。
また昭和初期には、東北地方で娘の身売りが社会問題になるほどの冷害凶作が続いたが、同時期の北海道でも、昭和3年に死者8人、負傷者14人を出している。
そしてこの時期に起きた特筆すべき事件が、士別地方で広く言い伝えられてきた「天理教布教師熊害事件」である。
この事件は白昼堂々、市街地からほど近い場所で発生したことから目撃者も多く、討ち取られたクマが公衆の面前で解体されたため、ショッキングな事件として長く語り継がれてきた。
■ 通读80年地方报纸后得出的结论
从过往记录来看,农作物的丰收或歉收,与熊对人造成的伤害之间存在着极为密切的关系,这是不言而喻的。
笔者通读了明治、大正、昭和三个时代、约80年间的北海道地方报纸,收集并整理了棕熊(北海道棕熊)相关事件,建立了数据库,并汇编成拙著《诸神的复仇》(讲谈社)。结果发现,在北海道的开拓时期,只要遇到连绵阴雨、台风或冷害之年,几乎无一例外,熊害都会明显增加。
例如,在被称为前所未有的大歉收之年的大正2年,据笔者掌握的数据,棕熊造成的死亡人数为11人、受伤者8人,再加上在库页岛失踪的7人,总计竟有18名受害者,这是整个开拓时期中最为惨重的数字。
此外,在昭和初期,东北地区因冷害和歉收持续发生,甚至发展到“卖女为生”成为社会问题的程度;而在同一时期的北海道,昭和3年也出现了死亡8人、受伤14人的熊害记录。
而发生在这一时期、尤为值得一提的事件,便是长期在士别地区广为流传的“天理教布教师熊害事件”。
由于该事件发生在光天化日之下,且地点距离市区不远,目击者众多;加之被击毙的熊在公众面前被当场解体,因此作为一桩极具冲击性的事件,长期被人们口耳相传。
■24歳の青年はヒグマに連れ去られ…
昭和六年十一月に上川郡温根別村にあったことで、午前十時頃道路から人のはげしい悲鳴が聞えたので、皆が駈け寄って見たら、道に小さな風呂敷包みと鮮血に染った帽子が落ちていて、誰かが熊に襲われたことが判り大騒ぎとなって捜索したところ、天理教布教師の原田重美さんという二十四才の青年であることが判った(後略)(「熊」)
『熊・クマ・羆』(林克巳、1971年)によれば、事件が起きたのは《一度降った雪も消えて、小春日和を思わせる晩秋の日》であったという。
他にもいくつかの記録があるが、なかでも『士別よもやま話』(士別市郷土史研究会、1969年)の及川疆の談話が詳しいので適宜引用する。
旭川で用事を済ませて帰宅途中の天理教の原田布教師が、大津澱粉工場を過ぎて百メートルほどのところで、突然飛び出してきたヒグマに担ぎ上げられ北側の斜面に連れ去られた。
布教師の悲鳴は澱粉工場にも伝わり、働いていた連中は屋根に逃げるなど大騒ぎとなった
■ 24岁的青年被棕熊拖走……
昭和6年11月,在上川郡温根别村一带,上午10点左右,从道路方向突然传来凄厉的惨叫声。众人赶到现场时,只见路上掉着一个小包袱和一顶被鲜血染红的帽子,由此判断有人遭到熊的袭击。人们随即大肆搜寻,最终确认受害者是天理教布教师原田重美,一名24岁的青年(后略)(《熊》)。
据林克巳记载,事件发生在“此前下过的雪已然融化、宛如小阳春般的深秋之日”。
关于此事还有多份记录,其中以《士别杂谈》(士别市乡土史研究会,1969年)中及川疆的叙述最为详尽,以下择要引用。
当天,天理教布教师原田在旭川办完事返家途中,经过大津淀粉工厂后约一百米处,突然被一头窜出的棕熊扛起,拖向北侧的山坡。
布教师的惨叫声传到了淀粉工厂,正在工作的工人们惊慌失措,有的甚至爬上屋顶躲避,现场一片混乱。
■2時間で「体の半分」が食い尽くされた
新聞によれば、通報と同時に警察隊が組織され、午後0時半頃に落葉松林内で発見、射殺した(「小樽新聞」昭和6年11月8日夕刊)。
斜面の上でこの熊は、猟師が三間に近づくまで微動だにせず、一気に躍りかかろうとした瞬間を射殺されたという。一発は両耳を貫通し、もう一発は両耳と両目の交差する眉間の一発で、事件発生からわずか二時間のことであったという(及川疆)
加害熊の遺体は市街地に運ばれて解体されたが、腹の中から被害者の肉体が取り出されると、現場は阿鼻叫喚の様相を呈した。
死体の半分はすでに喰われていてこの半分というのが消防番屋「現士別信金本店」で町民のみている中で老兇漢の腹中から血糊と一緒にとり出される。
こわいものみたさ女ヤジ馬も現代言では失神とか、この山の王者のなれの果て、目方はそのまま測らなかったが脂気一つない肉だけですら四十三貫もとれたというからこれが健康なら優に百貫はこえていたであろう。
被毛(ひもう)が頭から肩にかけ僅(わずか)に生えているだけの裸も同様、ひどい虫歯で満足なものは一本もない。目も鼻もただれていてこのままではとうてい冬は越すことが出来なかったにちがいない。
ひ熊が人を襲うのは何の理由もなしにするものではなく、いろいろの条件が重なった結果であることを証明する様な事件であった(及川疆)
■ 两小时内,“半个身体”被吞食殆尽
据报纸记载,接到通报后,警方立即组织搜索队,并于中午12点半左右在落叶松林中发现并将该熊击毙(《小樽新闻》昭和6年11月8日夕刊)。
据及川疆回忆,这头熊在山坡上几乎一动不动,直到猎人接近到约三间(约5.4米)时,才突然准备扑击,随即被当场射杀。其中一枪贯穿双耳,另一枪击中双耳与双眼交汇处的眉心。从事件发生到熊被击毙,仅仅过去了约两小时。
肇事熊的尸体随后被运至市区,当众解体。当从其腹中取出遇害者的遗体时,现场顿时陷入一片惨不忍睹、哀号遍地的景象。
遗体已有一半被吞食,而剩下的这一半,是在消防值班所(即现今士别信用金库本店)内,当着围观町民的面,从这头老凶熊的腹中,连同血污一起被取出的。
出于猎奇心理前来围观的妇女,有人当场昏厥。至于这位“山林之王”的悲惨下场,虽然没有当场称重,但即便只是毫无脂肪的瘦肉,也足足取出了四十三贯(约160公斤);若是在健康状态下,其体重恐怕轻易就会超过一百贯。
它的皮毛从头部到肩部仅残留少量,几乎如同裸露一般;牙齿严重蛀坏,几乎没有一颗是完好的,眼睛和鼻子也已溃烂成样,可以想见,若是放任不管,它无论如何都不可能熬过这个冬天。
这起事件,正是有力地证明了:棕熊袭击人类,并非毫无缘由,而是多种不利条件叠加所导致的结果。(及川疆)
“24岁男子的‘半个身体’在熊的胃里……”——分析近80年报纸后揭示的“不冬眠熊”的极端凶残真相
冬眠の時期になっても、クマによる被害が相次いでいる。ノンフィクション作家・人喰い熊評論家の中山茂大さんは「冬ごもりをするために十分なエサが得られなかったクマが凶暴化し、見境なく人間を襲うようになる。約80年分の北海道の地元紙を通読すると、その恐ろしい実態が確認された」という――。
即便到了本该冬眠的季节,由熊引发的伤害事件仍接连不断。非虚构作家、“食人熊”评论家中山茂大指出:“那些在入冬前没能获取足够食物、无法顺利冬眠的熊,会变得异常凶暴,开始不分对象地袭击人类。通读约80年间的北海道地方报纸,可以确认这种令人毛骨悚然的现实。”
■過去最悪のクマ被害の「本当の理由」
環境省の発表によれば、4〜11月のクマによる被害者数が全国で230人となった。
過去最悪のクマ被害を出した令和7年も師走を迎えたが、クマが冬ごもりに入るはずのこの時期になっても人身事故は後を絶たない。
今月4日には、富山市婦中町で新聞配達中の夫妻がクマに襲われ、顔などに大怪我を負い、長野県野沢温泉村では、除雪作業中の男性が襲われ怪我をした。
これほど多くの被害を出した大きな要因のひとつが、東北地方でのドングリの凶作だといわれる。
しかし筆者の体感的には、これに加えて、柿の豊作が影響しているのではないかと思う。
まだ統計が出ていないので断定はできないが、今年は全国的に柿が豊作といわれ、千葉県大多喜町の拙宅でも、たわわな柿が鈴生(すずな)りである。
柿は日本全国で生育し、多くの農家が好んで植えた。
過疎化によって山から人間が撤退し、その一方でクマの支配地域が広がり、里山に放置された果樹が野生動物を誘引する一因となっていることは、指摘されるところである。
山の木の実の不作と柿の豊作が重なったことで、例年より多くのクマが里山に下りてきた可能性がある。
■ 史上最严重熊害的“真正原因”
据环境省发布的数据,4月至11月期间,全国因熊造成的受害者人数达到230人。
即便在造成史上最严重熊害的令和7年已经进入年末,本应进入冬眠期的这个时节,人员伤亡事故仍然不断发生。
本月4日,在富山市妇中町,一对正在投递报纸的夫妻遭熊袭击,面部等部位受到重伤;在长野县野泽温泉村,一名正在进行除雪作业的男子也遭到熊袭击并受伤。
重要原因之一是东北地区橡果的大幅欠收。
然而从笔者的切身体会来看,除此之外,柿子的大丰收或许也产生了影响。
由于尚未公布相关统计数据,尚无法断言,但今年被认为全国范围内柿子普遍丰收,笔者位于千叶县大多喜町的寒舍里,柿子也累累成串。
柿子在日本全国各地都能生长,许多农户都乐于种植。
随着人口减少,人类逐渐从山区撤离,与此同时熊的活动和支配区域不断扩大,而被遗弃在里山的果树,正被指出是吸引野生动物的一个原因。
山林中坚果类作物的歉收,与柿子的大丰收叠加在一起,可能导致比往年更多的熊下山进入里山地区。
■80年分の地元紙を通読してわかったこと
農作物の豊凶作と、クマによる人身被害に密接な関係があることは、過去の記録を見れば明らかである。
筆者は明治・大正・昭和と約80年分の北海道の地元紙を通読して、ヒグマによる事件を収集、データベース化し、拙著『神々の復讐』(講談社)にまとめたが、開拓時代の北海道では長雨や台風、冷害の年には、必ずと言ってよいくらいにクマ被害が増加している。
たとえば未曾有の大凶作といわれた大正2年には、筆者が把握しているところでは、ヒグマによる死者11人、負傷者8人、樺太での行方不明7人を加えると、18人もの犠牲者を出しており、これは開拓期を通して最悪の数字である。
また昭和初期には、東北地方で娘の身売りが社会問題になるほどの冷害凶作が続いたが、同時期の北海道でも、昭和3年に死者8人、負傷者14人を出している。
そしてこの時期に起きた特筆すべき事件が、士別地方で広く言い伝えられてきた「天理教布教師熊害事件」である。
この事件は白昼堂々、市街地からほど近い場所で発生したことから目撃者も多く、討ち取られたクマが公衆の面前で解体されたため、ショッキングな事件として長く語り継がれてきた。
■ 通读80年地方报纸后得出的结论
从过往记录来看,农作物的丰收或歉收,与熊对人造成的伤害之间存在着极为密切的关系,这是不言而喻的。
笔者通读了明治、大正、昭和三个时代、约80年间的北海道地方报纸,收集并整理了棕熊(北海道棕熊)相关事件,建立了数据库,并汇编成拙著《诸神的复仇》(讲谈社)。结果发现,在北海道的开拓时期,只要遇到连绵阴雨、台风或冷害之年,几乎无一例外,熊害都会明显增加。
例如,在被称为前所未有的大歉收之年的大正2年,据笔者掌握的数据,棕熊造成的死亡人数为11人、受伤者8人,再加上在库页岛失踪的7人,总计竟有18名受害者,这是整个开拓时期中最为惨重的数字。
此外,在昭和初期,东北地区因冷害和歉收持续发生,甚至发展到“卖女为生”成为社会问题的程度;而在同一时期的北海道,昭和3年也出现了死亡8人、受伤14人的熊害记录。
而发生在这一时期、尤为值得一提的事件,便是长期在士别地区广为流传的“天理教布教师熊害事件”。
由于该事件发生在光天化日之下,且地点距离市区不远,目击者众多;加之被击毙的熊在公众面前被当场解体,因此作为一桩极具冲击性的事件,长期被人们口耳相传。
■24歳の青年はヒグマに連れ去られ…
昭和六年十一月に上川郡温根別村にあったことで、午前十時頃道路から人のはげしい悲鳴が聞えたので、皆が駈け寄って見たら、道に小さな風呂敷包みと鮮血に染った帽子が落ちていて、誰かが熊に襲われたことが判り大騒ぎとなって捜索したところ、天理教布教師の原田重美さんという二十四才の青年であることが判った(後略)(「熊」)
『熊・クマ・羆』(林克巳、1971年)によれば、事件が起きたのは《一度降った雪も消えて、小春日和を思わせる晩秋の日》であったという。
他にもいくつかの記録があるが、なかでも『士別よもやま話』(士別市郷土史研究会、1969年)の及川疆の談話が詳しいので適宜引用する。
旭川で用事を済ませて帰宅途中の天理教の原田布教師が、大津澱粉工場を過ぎて百メートルほどのところで、突然飛び出してきたヒグマに担ぎ上げられ北側の斜面に連れ去られた。
布教師の悲鳴は澱粉工場にも伝わり、働いていた連中は屋根に逃げるなど大騒ぎとなった
■ 24岁的青年被棕熊拖走……
昭和6年11月,在上川郡温根别村一带,上午10点左右,从道路方向突然传来凄厉的惨叫声。众人赶到现场时,只见路上掉着一个小包袱和一顶被鲜血染红的帽子,由此判断有人遭到熊的袭击。人们随即大肆搜寻,最终确认受害者是天理教布教师原田重美,一名24岁的青年(后略)(《熊》)。
据林克巳记载,事件发生在“此前下过的雪已然融化、宛如小阳春般的深秋之日”。
关于此事还有多份记录,其中以《士别杂谈》(士别市乡土史研究会,1969年)中及川疆的叙述最为详尽,以下择要引用。
当天,天理教布教师原田在旭川办完事返家途中,经过大津淀粉工厂后约一百米处,突然被一头窜出的棕熊扛起,拖向北侧的山坡。
布教师的惨叫声传到了淀粉工厂,正在工作的工人们惊慌失措,有的甚至爬上屋顶躲避,现场一片混乱。
■2時間で「体の半分」が食い尽くされた
新聞によれば、通報と同時に警察隊が組織され、午後0時半頃に落葉松林内で発見、射殺した(「小樽新聞」昭和6年11月8日夕刊)。
斜面の上でこの熊は、猟師が三間に近づくまで微動だにせず、一気に躍りかかろうとした瞬間を射殺されたという。一発は両耳を貫通し、もう一発は両耳と両目の交差する眉間の一発で、事件発生からわずか二時間のことであったという(及川疆)
加害熊の遺体は市街地に運ばれて解体されたが、腹の中から被害者の肉体が取り出されると、現場は阿鼻叫喚の様相を呈した。
死体の半分はすでに喰われていてこの半分というのが消防番屋「現士別信金本店」で町民のみている中で老兇漢の腹中から血糊と一緒にとり出される。
こわいものみたさ女ヤジ馬も現代言では失神とか、この山の王者のなれの果て、目方はそのまま測らなかったが脂気一つない肉だけですら四十三貫もとれたというからこれが健康なら優に百貫はこえていたであろう。
被毛(ひもう)が頭から肩にかけ僅(わずか)に生えているだけの裸も同様、ひどい虫歯で満足なものは一本もない。目も鼻もただれていてこのままではとうてい冬は越すことが出来なかったにちがいない。
ひ熊が人を襲うのは何の理由もなしにするものではなく、いろいろの条件が重なった結果であることを証明する様な事件であった(及川疆)
■ 两小时内,“半个身体”被吞食殆尽
据报纸记载,接到通报后,警方立即组织搜索队,并于中午12点半左右在落叶松林中发现并将该熊击毙(《小樽新闻》昭和6年11月8日夕刊)。
据及川疆回忆,这头熊在山坡上几乎一动不动,直到猎人接近到约三间(约5.4米)时,才突然准备扑击,随即被当场射杀。其中一枪贯穿双耳,另一枪击中双耳与双眼交汇处的眉心。从事件发生到熊被击毙,仅仅过去了约两小时。
肇事熊的尸体随后被运至市区,当众解体。当从其腹中取出遇害者的遗体时,现场顿时陷入一片惨不忍睹、哀号遍地的景象。
遗体已有一半被吞食,而剩下的这一半,是在消防值班所(即现今士别信用金库本店)内,当着围观町民的面,从这头老凶熊的腹中,连同血污一起被取出的。
出于猎奇心理前来围观的妇女,有人当场昏厥。至于这位“山林之王”的悲惨下场,虽然没有当场称重,但即便只是毫无脂肪的瘦肉,也足足取出了四十三贯(约160公斤);若是在健康状态下,其体重恐怕轻易就会超过一百贯。
它的皮毛从头部到肩部仅残留少量,几乎如同裸露一般;牙齿严重蛀坏,几乎没有一颗是完好的,眼睛和鼻子也已溃烂成样,可以想见,若是放任不管,它无论如何都不可能熬过这个冬天。
这起事件,正是有力地证明了:棕熊袭击人类,并非毫无缘由,而是多种不利条件叠加所导致的结果。(及川疆)
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人間の被害を減らすためには、駆除して絶対数を減らさなければいけないが絶滅はさせたく無いという人間のエゴがある。人間は怖いんだ、避けなければいけないんだと思って人間の気配を感じたら逃げていた熊が、だんだん慣れて来て殺される事も無くなったから、人間は怖く無いんだ、逃げなくて良いんだ、餌になるんだと思う様に切り替わって来たんだと思われます。共存するためにはまた人間は怖いんだとDNAに刻み込む必要が有りますね。熊の胃袋の中より人間の胃袋の中の方が食用として無惨に殺された動物たちの肉が沢山入っているのが現実ですね。
为了减少人类的受害,就必须通过捕杀来降低其绝对数量,但同时又不希望将其灭绝——这本身就是人类的自私之处。原本一旦察觉到人类气息就会逃跑、认为“人类很可怕、必须避开”的熊,随着逐渐习惯了人类、也不再因此被猎杀,便开始转变认知:人类并不可怕,不必逃跑,甚至可以成为食物。
要想实现共存,就必须再次把“人类是可怕的存在”这一认知刻进它们的DNA里。现实是,与熊的胃袋相比,人类的胃袋里装着更多作为食物被残酷杀死的动物之肉。
冬眠をするための餌不足で凶暴化して人間を襲っているのではなく、冬眠の習性が希薄になって来ており、単純に人間を餌と考えているだけと思います。熊の出没地域から移転したいとのお話も聴きますが、それで熊が減るわけでもなく、熊を押し戻す、絶滅でもさせるつもりで人間の生活圏を確保しないと本末転倒と思います。
与其说是因冬眠前食物不足而变得凶暴、进而袭击人类,不如说是熊的冬眠习性正在逐渐淡化,它们只是单纯地把人类当成了食物。
也听到有人说想从熊出没地区搬迁,但那样并不会让熊减少。如果不抱着把熊逼回去、甚至以灭绝为前提来确保人类生活圈,那就是本末倒置。
クマは代々母親クマから2,3年かけてマンツーマンでエサの取り方、危険回避の方法などを学ぶ。教育ママみたいなもの。それに加えて生きていくための技術、経験をそれぞれの母クマから学ぶ。だから江戸時代のクマより今のクマが、経験量を多く学び進化している。個体行動の動物だから対応が難しいと言われる。ライオン、トラより知能が高く、サル、カラスの次に知能が高いとも言われている。街に出てくるクマを見ても山にいるクマのことをわからない。強い保護対策をした年月で、山の中で変化が起きていたんだね。今は、人間に近い街クマが増加し、クマ被害が出ている。こういう危険、脅威を与える可能性が高い野生動物への注意が必要だった。怠慢だった。ハンターの減少も問題だけどクマの生態調査から駆除、関係機関の調整まで行う海外の国のクマ専門家が日本に少ないようで、専門家の増員も必要だと思います。
熊是一代代由母熊花上两三年时间,进行“一对一”地学习取食方式、规避危险的方法等,简直就像“教育型母亲”。此外,它们还从各自的母熊那里学习生存所需的技术与经验。
因此,相比江户时代的熊,如今的熊学习了更多经验,也在不断进化。由于它们是以个体行动为主的动物,因此被认为应对起来十分困难。
据说熊的智力高于狮子和老虎,仅次于猴子和乌鸦。即便我们看到的是出现在城市里的熊,也并不了解山中熊群发生了什么变化。多年来强力的保护政策,使山林内部发生了变化。
如今,接近人类生活区的“城市熊”不断增加,熊害频发。对于这种极有可能带来危险与威胁的野生动物,本应给予足够警惕——但我们做得不够,这是怠慢。
猎人数量减少固然是问题,但日本似乎缺乏像海外那样,从熊的生态调查、到捕杀管理、再到相关机构协调都能一手包办的熊类专家,因此我认为也有必要增加专业人员。
ただ単に、熊が増え、山には食べ物がなく、高齢化過疎化が進み、里山も減り、放置柿が増え、食べ物を求めて近くまでやってきた。
熊にとってはそこに、人がいたってことじゃないか。驚いたり、子供を守る為に襲う。食べる目的が主であるならば、もう何年も前からとっくに大きな国の事件になっている。
80年たった今はこの逆のことを、していかないとという時代にきている。それでも遅いが。5年前ぐらいから兆候はあったようだし。
简单来说,就是熊的数量增加、山中食物减少、人口老龄化和过疏化加剧、里山减少、被弃置的柿树增多,熊为了寻找食物而逐渐接近人类居住地。
对熊来说,只不过是“那里刚好有人”而已。它们或是受到惊吓,或是为了保护幼崽而发动攻击。
如果熊袭击人的主要目的真的是为了捕食,那么这种事件早在多年前就已经演变成全国性的大事件了。
而在80年后的今天,我们正处在必须做“相反之事”的时代——尽管已经有些晚了。大约五年前似乎就已经出现了征兆。
クマを処分するなと言ってる人にはぜひこの記事を読んでもらいたい。野生のクマは猛獣と認識すべきで、人里に近づくということは飢えているということであり、人が襲われる前に処分するのが当然だということが分かるだろう。
我希望那些主张“不要处置熊”的人,务必读一读这篇文章。
野生熊应当被认知为猛兽,而接近人类聚落本身就意味着它们正处于饥饿状态,在人类被袭击之前加以处置,本就是理所当然的事情——读完之后,想必会明白这一点。
記録文学の大家、吉村昭の作品に『羆嵐』(くまあらし)というものがあり、新潮文庫に収まっている
それはまあ恐ろしい話で、まだ若い頃に初めて読んだときは、途中で怖くなって読むのをやめようかと思ったくらいだ
まさか今年のような熊被害が続く年が来るなんて思わなかったが、また読んでみたらやっぱり怖い
ぜひ一度読んでみて欲しい
特に熊駆除反対派の方に
これを読んでもまだそんなことが言えますか、と
记录文学大家吉村昭有一部作品叫《熊岚》,收录于新潮文库。
那是一部极其恐怖的作品,我年轻时第一次读到时,甚至因为害怕而想中途放弃。
没想到竟然会迎来像今年这样熊害频发的一年,再次读起这本书,依然令人不寒而栗。
真心希望大家能读一读,尤其是反对猎杀熊的人。
读完之后,你们还能说出那样的话吗?
雪が積もっても人が来るなら捕食チャンス
食うに困らないなら冬眠不要だし
春先はライバルに差を付けての体力回復
しかも里に出れば季節関係無く飢えを凌げる
都会が山になるのも遠くないかも
即便大雪堆积,只要有人出现,对熊而言就是捕食的机会。
如果不愁吃喝,就不需要冬眠;
到了早春,还能在体力恢复上领先竞争对手。
而且只要下到人类聚落,就能不受季节限制地缓解饥饿。
或许,用不了多久,城市就会变成“新的山林”。
柿、今年豊作かな?
私は柿が好きでよく買って食べるけど富有柿も次郎柿も出てくるの遅かったし、値段も安くない。
あと、12月から出始めた市田柿の干し柿が今年はやたらと高い。
例年の2割増しくらい。
夏の高温もしくは熊被害のせいで少ないとかなのかなと思った。
今年柿子算是丰收吗?
我很喜欢吃柿子,也经常买来吃,但无论是富有柿还是次郎柿,上市都偏晚,价格也并不便宜。
另外,从12月开始上市的市田柿干,今年的价格异常之高,大约比往年贵了两成。
我在想,会不会是夏季高温,或者熊害的影响,导致产量减少了。