なぜ無敵だった元の大軍が敗れたのか

为什么无敌的元军会战败?


当時最強と謳われた元の大軍を日本は退けることができた。その理由は「日本の特徴」にあると歴史作家・関裕二氏は語る。(対馬の中央に広がる浅茅(あそう)湾)

在古时,日本为何能够击退当时被誉为最强的元大军?历史作家关裕二对此表示,其原因在于“日本的特色”。

日本は大海に浮かぶ孤島だから、独自の文化が花開いている。かつては、日本の文化のほとんどが、大陸や朝鮮半島からもたらされたものと信じられてきた。古代日本は渡来人に征服されることはなかったし、海の古代史を探っていけば、「渡来人征服説」には、大きな疑念が浮かびあがってくるのである。

日本是一座漂浮在大海上的孤岛,所以有着自己独特的文化。过去,人们相信日本的文化大部分都是从大陆和朝鲜半岛传入的说法。古代日本并没有被渡来人征服,如果探究一下关于大海的历史的话,很显然“渡来人征服说”是有很大的漏洞在的。

※本稿は、関裕二著『海洋の日本古代史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

※本文摘录并编辑了关裕二著的《海洋之岛——日本古代史》(PHP新书)。

「魏志倭人伝」に記された驚きの対馬

《魏志倭人传》中记载的对马海峡很令人吃惊。

対馬にはじめて旅した時、日本史の根幹がわかった気がした。対馬があったから、日本は日本のままでいられたのではないか、とさえ思った。

我第一次去对马旅游的时候,就感受到了那里具有日本历史的根源性。我甚至觉得,正是因为有了对马,日本才能够保持自己本来的面貌。

対馬は日本列島よりも朝鮮半島に近い。北側の展望台から、対岸の釜山(プサン)が見える。今でも、韓国から多くの人たちがやってくる。近年では、日本人よりも韓国人観光客の方が、圧倒的に多い(新型コロナ禍の時期は別だが)。

对马比日本列岛更靠近朝鲜半岛。从北侧的瞭望台可以看到对岸的釜山。即使是如今也有很多很多人从韩国到对马。近年来韩国的游客的数量远远地比当地的日本人还要多(当然姑且不论疫情时期)。

だから当然、対馬は朝鮮半島の文化圏と思われがちだ。しかし、ここは縄文時代からすでに、縄文的で日本的だったのだ(考古学的にはっきりとわかっている)。たとえば弥生時代の稲作は、朝鮮半島からではなく、九州から伝わっている。

所以理所应当的,对马容易被认为处于朝鲜半岛的文化圈。但是,从绳文时代开始,这里就已经是绳文式的日本地区了。(从考古学上可以很清楚的证明这一点)比如弥生时代的水稻种植,就不是从朝鲜半岛传来,而是从九州传来的。

なぜ、近い方の、朝鮮半島の文化に染まらなかったのだろう。この謎は、対馬だけの問題ではなく、日本列島にも当てはまると思う。

为什么这里没有被附近的朝鲜半岛文化所影响呢?我觉得这个谜团不只是对马的问题,也适用于日本整个列岛。

大陸や半島側から日本地図を見なければ、日本の本当の歴史はわからないという話はよく聞く。ならば、そうしてみよう。対馬は渡来人が、最初に訪れる日本列島だ。陸続きでどこまでも行ける大陸の人間にとって、大海原に漕ぎ出し、対馬に行くこと自体が大きな冒険だっただろう。

我经常听说一种说法,如果不从大陆和半岛的角度来看日本地图的话,就无法得知日本真正的历史是如何的。既然如此,我们就这么试试吧。对马是渡来人最先到访日本列岛的地方。对于陆地相连接、无论哪里都能去的大陆人来说,度过大海到对马海峡本身就是一个很大的冒险。

そして、たどり着いた小さな島が、意外にも急峻で、海岸から仰ぎ見るような崖や山に覆おおわれ、平地がなく、「これが倭(日本)なのか」と、茫然としただろう。

并且好不容易上了岸,这个小岛却意外地很险峻,海岸附近就可以看见高耸的悬崖和大山,没有平地。当年的渡来人可能会茫然的想:“这就是倭(日本)吗?”的吧。

すでに触れたように、「魏志倭人伝」には、対馬の様子が「驚き」とともに描かれている。「絶島」といい、良田はないという。良田がないのではなく、正確には「平地がない」「山ばかり」なのだ。

正如上文所说的那样,《魏书・倭人传》中对对马的描述中带有一种惊讶的情绪。其中说这里是个绝岛,没有良田。其实不仅是说没有良田,正确的说法应该是这里“没有平地”“尽是山”。

大陸の人間の「農地もない孤島で、どうやって暮らしているのだろう」という、感想が聞こえてきそうだ。対馬の次に、壱岐がある。ここの記事も面白い。

读史时似乎能够听到当年大陆人发出的“在没有农田的孤岛上,是怎么生活的呢”的感慨。对马之后是壹岐岛,《魏书》中对它的描述也很有趣。
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「竹林と叢林が多く、三千ばかりの家がある。やや田地はある。ただ、田を耕しても十分な食料を得ることができず、やはり南北に市糴している」

“此地多竹林丛林,共有户三千,稍有田地。然耕作不够人食,需向南北市易。”(ps:此处的南北中的南主要指九州,北指朝鲜半岛)

ここでも、田畑の少なさに驚いている。壱岐は平坦だが、おそらく「水の供給」の問題で、農業は振るわなかったのだろう。

这里的土地之少也令当年的人惊讶。壱岐很平坦,之所以农业无法振兴,恐怕是因为当年无法做到“水的供给”吧。

「ああ、だから、やむなく船を漕ぎ出して、交易しているのか」
と、大陸の人たちは、勘違いをしたにちがいない。やっとの思いで九州島の末盧国にたどり着いても、遣わされた使者は獣道よりもひどい道を歩かされている。「前を行く人の背中も見えなかった」と、帰国後、みなに吹聴したのだろう。

所以大陆的人们会认为“啊,那就没办法了,只有乘船出海去交易了。”,被派遣来的使者好不容易走到了九州岛的“末卢国”,脚下的路却依然比原始森林的道路更糟糕。于是回国后便向众人宣扬说:“(路糟糕得)连前面走着的人的背影都看不见。”

どこまでも続く広い道を日々往来している大陸の人びとにとって、日本列島は「未開の地」であるだけではなく、「土地を奪ったところで、山しかない。人が住めない。村と村を往き来できない」わけで、侵略する意欲を削そいだことだろう。まして、騎馬民族なら、騎馬の優位性は激減する。

对于每天都在宽广道路上来来往往的大陆的人们来说,日本列岛不仅仅是片“未开化之地”,而且是一片“即使抢夺也因没有土地,只有山,人是住不了的,且村与村之间都无法相通”的地方,所以恐怕会提不起他们想要进攻的欲望吧。而且这里也会削弱骑马民族的骑兵优越性。

騎馬民族日本征服説の証拠は見つかっていない

【无法找到骑马民族征服日本说的证据】

時代は下り、弘安の役(1281年の元寇)で元は敗れるが、『元史』には、10万の軍勢のうち生還したのは3人だけで、このとき江南(華南)の唐人は生け捕りにされたと記録されている。

随着时代的变迁,到了元朝时期的弘安之役时(1281年的元寇入侵),据《元史》记载,10万大军中生还的只有3人,江南(华南)的中国人被活捉。
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「南船北馬」というように、中国の北側は平原が広がっていたから馬が重宝されたが、南側は大河川と森に囲まれて、水運が発達していた。さらに、大海原に船を漕ぎ出し、東南アジアに商圏を確立していたのだ。その江南の人びとだけは、助けられたのだ。

正如“南船北马”这个词所揭示的那样,中国的北方平原广阔,所以人们很重视马。而被大江大河和森林包围的南方则是水运发达,并且还可以乘船出海,在东南亚建立商业圈。所以当时只有江南的人得救了。

日本側はしたたかで、江南の唐人から、造船、航海の技術、潮の流れなどの知識を得て、ここから先、倭寇が出現し、各地で暴れはじめる。問題は、なぜ無敵だった元の大軍が敗れたのか、である。

日本海方面的住人比较刚强,他们从江南的唐人那里学得了造船、航海技术、潮流相关的各种知识,在此之后此地还出现了倭寇,在各地开始生事。为什么当时无敌的元朝大军会失败了呢?

もちろん、台風にやられたという直接的な原因はあったが、戦略的に見て、大軍の長期逗留(とうりゅう)には、無理があった。だいたい、兵站が維持できない。

虽然最直接的原因就是台风,但是从战略上来看,元朝基本不可能在这里长期滞留大军。因为他们无法维持补给线。
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壱岐の住民はほぼ全滅したが、対馬は完全に滅んだわけではない。人びとは山に逃れている。10万もの大軍の食料を朝鮮半島から運ぶとすれば、対馬の民のゲリラ戦にも対処する必要がある。輸送船団を水軍が襲えば、10万の兵は干上がる。

虽然壹岐的居民几乎全部死绝了,但对马并不是这样。当时的人们逃到了山里。如果从朝鲜半岛运来10万大军的军粮的话,就必须面对对马民众的游击战。而且如果水军袭击了船队的话,10万士兵就会完蛋。
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古代も、同じだ。一時、江上波夫の騎馬民族日本征服説が一世を風靡したが、冷静に考えれば無理がある。考古学的に「騎馬民族がヤマトを席巻した証拠」は見つかっていない。

再往上的古代历史也是同样。过往曾经有一段时间,学者江上波夫的骑马民族征服日本的说法风靡一时,但是如果冷静地思考一番的话这是不可能的。因为考古学上并没有发现骑马民族席卷大和的证据。

神話にいう葦原中国(あしはらのなかつくに)は、「湿地帯や水田が多い土地」でもある。馬は脚を取られるし、船に馬を乗せ瀬戸内海を東に進めば、複雑な潮の流れに翻弄され、水軍の格好の餌食(えじき)になるだけだった。

神话中所说的苇原中国是个“湿地和水田多的地方”(苇原中国:就是指日本)。所以在这种地方马无法前进,而如果让马坐船沿着濑户内海上东走的话,就只会面临一片复杂的潮浪汹涌水域,成为当地水军的绝好狙击对象。

内陸部を進軍すれば、隘路(獣道に毛の生えた程度の狭い道だっただろう)で周囲の林から弓を射かけられて、ゲリラ戦に苦しめられ、疲弊していくだけだ。騎馬民族も領土欲が失せただろう。大陸の人間は、むやみやたらに、大海原に飛び出そうとは思わなかったはずなのだ。漁も航海も、素人には真似できない特殊技術だからだ。

如果在内陆地区进军的话,只会在狭隘的道路(跟原始森林一样的道路)上被藏在周围的树林的游击队用弓箭攻击,被折磨得疲惫不堪。所以马上民族是会失去列入领土的欲望的。而且大陆的人也不会胡乱的进军大海。无论是捕鱼还是航海,这些都是外行人无法轻易做到的。

それでも、どうしても海を渡りたいというのは、「敵に攻められて、もう、もちこたえられない」「独裁者の横暴に耐えられない」と、考えた時だろう。渡来人は征服者ではない。多くは亡命者である。

関裕二(歴史作家)
面对如此情况,也一定要漂洋过海来到这里的,恐怕就是那些被仇家攻击无法再呆在当地,或者无法忍受独裁者的渡来人了吧。渡来人不是征服者,他们多数是流亡者。
关裕二(历史作家)